遡ること、関ケ原の戦い。
関西を拠点としていた原山一族は、西軍についていたため、関ヶ原の戦い後、長野から新潟へと移ってきました。(大阪には原山台という地名も有ります)
明治に入って電気が点くようになるまで、油や蝋燭で明かりをとっていましたが、当時は藩で生産や販売が統制されていました。
原山ご本家は村松藩(越後蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した藩)で蝋座を任されることになります。
その後、当家は薬売りを生業としていましたが、雪国である新潟では、冬場に機織りが盛んに行われていたため、糸や生地を染める薬品を取り扱うようになりました。
時代が進み、天然染料から合成染料へと変わっていく中、英語が堪能だった三代目店主原山義雄は、いち早く化学発祥の地であるドイツやイギリス、スイス等の品質の良い合成染料に目を付け仕入れを始めます。
汎用品の国産の染料と高品質の海外染料との二本立てで事業を拡大してまいりました。戦前の主力輸出産業であった繊維産業は重
工業・電器産業・車産業へと推移し現在では、価格競争や公害の規制などで日本の染料の生産はどんどん減っており、海外製品がほとんどとなっております。
その為繊維産業以外の排水処理に使う沈降促進剤や凍結防止剤、指定ごみ袋の発注納品等、長年にわたり化学製品を取り扱ってきたノウハウを生かし、時代に合わせて業態変化も行っております。
また石炭化学産業から石油化学産業への変化の中で発泡プラスチクスの発泡スチロールの製造を昭和39年に原山長平商店製造部で開始
いたしました。
原山長平商店は創業130年以上の歴史と共に、ずっと新潟県中越地方における繊維産業に貢献してまいりました。
しかし、社会の文化的進化は常に進んでおり、日本の繊維産業が花形だった時代はとうに終わりました。
これからの日本では人口減少を迎え、繊維業どころか製造業全体が大きく縮小していくことを感じています。
良い商品を提供する。このこと自体は絶対変わりませんが、提供方法から産業の在り方、お金をいただく価値の根源自体が、これまで想像もできなかったような変化を迎えることになると思われます。
原山長平商店は、これまでの商材、商習慣にとらわれず、事業内容に変化と革新を進めて参ります。
「伝統とは革新の連続である」との言葉があります。
世界中の老舗と言われる伝統的な企業のほとんどが、その歴史の中で何度も中心事業を変え、過去の自社の在り方を再定義しなおすことで、常に今の世の中に最適化することで存続を果たしています。
これまでの歴史があるからこそ、常に何かを変え過去を否定する。
常にアップデートを続ける姿勢で経営に向き合ってまいります。
昭和45年に高校卒業後18歳で入社して、もうすぐ原山長平商店に勤めて約50年になります。仕事内容は営業や配達、その他細かい雑務を行っております。
入社当時は染色工場に見本を持参するために薬品を使った色の調合や試験を手作業で行っていました。
今では工場で基礎データをパソコンに入れ込んで染めていくやり方に移り変わりましたが、最終的にはすべての人の目でチェックしています。
染料商の同業他社はほぼ廃業して、県内では3社のみ、見附市内では弊社だけになりました。
営業の仕事では、染料を売り込むときに原山長平商店ならではの特長やメリットを伝えることを大切にしています。
地元にいることで染料や薬品の在庫をすぐに用意できるので、お客様が求めたときにすぐに提供できる点が強みです。
仕事をしていて良かったことは長年勤めている中でいろいろな人と出会えたことですね。
仕事を通じて人とのつながりが増えたことで視野が広がり、自分自身の見識も広がりました。
実は化学自体に苦手意識があったので、最初は仕事が嫌で仕方なかった時期もありましたが、経験と共に技術を積み重ねることができて徐々に仕事が楽しくなりました。
失敗ももちろんありましたが、やはり成功したときはうれしいですし、自分の提案した商品が売れたり、お客様に喜んで頂けたときはやりがいを感じました。今は長く勤め続けて良かったと心から思っています。
「染料商は誰にでもできる仕事ではない」
良い商品を作っても高ければ売れないですし、値段を安くしても染色の丈夫さを表す堅牢度が高くなければ良い商品にはなりません。
新潟県内で染色産業を続けていくのは決して簡単ではないですが、弊社はそれでも生き残っています。
これからも確かな経験と共に積み重ねた技術と品質にプライドを持って、原山長平商店とともに歩み続けていきたいです。
昭和58年に嫁いで以来、子育てをしながら仕事を手伝ってきました。
仕事に慣れてきたころ、ちょうどバブル経済に突入し、原山化成工業㈱では小千谷工場・能生工場も新設され、無我夢中でした。
伝票を書くのもすべて手書き、お給料も現金支給という時代だったので、仕事が追い付かず、夜、子供を寝かしつけてから仕事をすることも多かったです。
当時、見附には染料問屋が6~7社あったのですが、現在では弊社だけとなっています。
染料は専門的な知識が必須な商品です。
誇りをもって続けていきたいですね。
【休日の過ごし方は?】
ドライブ、外食、旅行
配達の担当地区は、見附・三条・燕・水原・白根です。
主に、段ボール用の接着剤を取り扱っています。
一斗缶の積み下ろし作業が多いので、毎日筋トレのようですね。腰を痛めないように注意しながら配達をしています。
以前は機屋に勤めていたので、染料にも詳しいです。
その頃は染屋さんも30~50軒あったと思いますが、バブルを境に少なくなって、今では見附で2件、栃尾で2件、他の地区も減りました。
新しいものを取り入れつつ、昔からのお客さまを大切に業務を行っています。
【休日の過ごし方は?】
家族とドライブ
高校卒業後、県外で働いていたのですが、見附へ戻ってくることになりました。
新しく就職先を探していたところ、高校の時にアルバイトをしていた原山化成工業の求人が出ていたのでそちらで働くことに。発泡スチロールの成形をしていました。
こちらに仕事が変わってからは、栃尾・見附市内の配達を担当しています。染料や助剤が主です。
【休日の過ごし方は?】
子どもと一緒にキャンプやバーベキュー
パティオがおすすめです。
入社当時は、すべて手書きの時代。
忙しかったですね。伝票をいっぱい書いた思い出があります。
仕入れ先も配達先も長いお付き合いがあるので、お互いのことがよくわかっているというのが強みだと思います。
毎回のやりとりにやりがいを感じます。
【休日の過ごし方は?】
買い物、趣味の友人とお出かけ
商業科を卒業したので、それを生かすべく事務の仕事に就きました。
少人数でアットホームな感じですし、自宅から近いので通勤も楽、というのが決め手でした。
入社当時よりお客様が減ったなというのは否めませんが、今も昔も変わらず、つながりを大切に仕事をしています。
【休日の過ごし方は?】
ウィンドーショッピングなど、ゆったり過ごしています。